江戸切子の流れを支えた人と技 >  江戸切子の細工人 > 江戸切子の細工人

 江戸切子の細工人

江戸切子の細工人

■ 手摺一筋について

草柳勝太郎は、明治37年、伊豆市小坪に生まれました。大正6年5月小学校を出ると、祖父喜太郎の弟で、倉吉の叔父に当たる通称切米という切子細工師で、幕末から明治期、日本橋大伝馬塩町に広い工房を構えて活躍した草柳米七の肝いりで、二代目切米を継いでいた中出光之助の工房に弟子入りした。

当時70歳を過ぎていた米七は、大柄の恰幅のよい老人でしたが、このころすでに業界から引退して、神田で質屋を経営、この店を娘夫婦に任せて悠々自適名生活でした。ところが、弟子入りして数年後、親方の光之助は胸の病に犯され、出身地の藤沢へ療養に戻ったままなくなってしまいました。

この後、勝太郎は光之助の弟子で、切米に明治24年に弟子入りしたと言う本郷の山田将夫の工房に預けられ、修行を続けることになりました。理化学硝子の発展は、ガスと共にバーナーの発達によるところが大きいです。

日本でも明治の中ごろより普及し始めた都市ガスの導入により、飛躍的に発展しました。それまでは、製品の多くはドイツをはじめ、ヨーロッパから輸入されていましたが、破損されても直しようはありませんでした。

■ 浅草の切子職人・加藤栄蔵

切子といえば、薩摩切子・江戸切子など、今ではカットグラスの代名詞のようになりました。切籠という字にも当てられるように、硝子が一般的になる以前は、他の材料や形態に下地があったわけで、水晶、玉、硝子などそのほかの素材も含めて、かなり雑多な材料の加工を指していたようです。

切米と同じような道をたどった人物に、加藤栄蔵がいます。栄蔵も、薬瓶、香水瓶などの共栓の口摺りから、切子同様、高い摺り技術を買われて、理化学硝子の摺り合わせに加工が移っていきました。

加藤栄蔵の理化学硝子に移行するきっかけは、業界の必然的な要求と共に、日本の硬質硝子の先駆者・中野常次郎との出会いがあったのです。

■ 江戸切子最後の弟子

加藤栄蔵の最後の弟子・平井平蔵が浅草に健在でいます。加藤栄蔵の弟子には高野のほか、すでに職人として独立して一家を構えていた宮村健三、西村猪根吉などがいました。

平井へ遺贈が入門したときには、栄蔵晩年のころで、めったにその姿も観ることがありませんでした。栄蔵のところでは、各職人の仕上げた製品はその伝票を持って、それぞれの職人、小僧が月末に集金に行き、女将さんに渡すと言う方法でありました。