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 切子師になった幕臣の子

切子師になった幕臣の子

■ 品川硝子の切子部識工長・黒田作太郎

黒田作太郎は明治6年、三条実美公の賛助を持って、品川目黒川に板硝子の製造を企て、思うに任せなかった業者を冬至の工部省が買収、品川工作分局とし、板硝子の製造開発を一時棚上げして西洋吹きの導入を図り、英国より吹き硝子などの技術者を雇い、一般より伝修正を募りました。

明治14年、その一環としてエマヌエル・ホープトンマンが同国よりカット及びグラビールの指導者として来日し、作太郎はその時期に江戸切子部の伝修正となりますが、同僚の中には農村での少年も少なくありませんでした。

品川硝子は、明治の黎明期の一大事業で、その変遷も激しく名称もたびたび変わり、前身の私企業から政府の管轄、再び民営にと、約15年間の事業所でありましたが、その後、同所で学んだ伝習生たちによって、

各地で新工場や加工所が設立され、洋式硝子の普及に大きく貢献し、ガラス工業の発展に寄与した人材を多く排出させました。

■ 共同事業による切子加工

作太郎は、一時養子先の関係からか、板硝子の加工販売にも手を染めた時期もありましたが、そのうちカットグラスの共同事業の機運が高まり、明治37年から8年かけて、わが国で最初と言われる石油
エンジンの動力による江戸切子の専門工場が誕生しました。

当時はミシン識に1人で足踏みで動力を起こしながら、手では器を持って加工する方法もありましたが、動力のパワーなどに限界があり、主に浅い切子や日下の摺り模様などが彫られたようで、本格的な江戸切子は、主に手回しで加工機が使用され、助手がプーリーで連動された大車のハンドルを回し、職人が回転する円盤でカッティングすると言う具合でした。

■ 千本切子の名工・黒田貞松

大正に入り、三村豊八が本所長崎町で加工所をしている折、近くのみどり町にいた作太郎は三村の仕事を手伝っていて、小僧や、まだ腕の上がらない職工の指導もしました。

やがて林町に住居を移し、元来の江戸切子業に復帰しましたが、当時としては遅い、50歳にも手の届く年齢になっていました。本所から深川に抜ける三つ目どおりは、震災前は江戸の面影も残り、作太郎の加工所は大通りから少し入っていったところにあって、近くには林徳亭などという寄席もあり、若い噺家が人気を競っていたそうです。