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 薩摩切子の光芒

薩摩切子の光芒

■ 薩摩切子を伝えた池田助七

江戸切子には色褪せされた素材に、カットされたものはない、と言うのが痛切になっています。江戸市中のガラス屋は、規模の小さく零細であったため、切子に耐えられるような厚く色被せされた素材を作るのは無理であったろうと言うことで、薩摩藩による大資本の投下と、

当時の最高の知識と技術を持って始めて成功した硝子製品であったと推測されるからです。薩摩切子といえば、銅で発色させた赤硝子が有名でありますが、この色の発色はきわめて難しく、今日でもこの色被せのガラスを同じ色合いで連続して製品にすることは至難です。

しかも透き素地と胴赤の膨張係数の微妙なゆがみが後に現れ、よくよく覚ましたつもりでも、切子職人が同種のガラスにカットを施している最中、突然ぽかんと容器が真っ二つに割れることもあります。孝之助と助七の師弟関係は続きました。

維新の立役者、西郷隆盛が鹿児島に帰ってきたのは明治6年でしたが、その3年後の西南戦争へと風雲急を告げるころ、助七は師の孝之助に従って鹿児島を離れ上京しました。

東京高輪において、薩摩の旧士族であった岡村休左衛門らによって新たにガラス工房が設立され、それに呼応したものでした。

■ 薩摩切子の末裔たち

弟子の1人塚本富太郎は、小僧時分先輩の助手を務め、しくじったり作業が緩慢であったりすると、よく棒で小突かれたと笑い話にしているそうです。塚本は大正時代、三村豊八の東洋硝子に所属したあと、黒田作太郎の工房や河合硝子にいたこともあり、渡り職人の時代が続いていましたが

戦後独立しました。安部勝之助は、大正10年ごろ、20代で今の亀戸駅近く、いなき屋洋品店東向かい亀戸5丁目の独立し、江戸切子枠七、八台を使って仕事を始めました。勝之助は一本立ちする前に関西、名古屋方面に修行に出たようで、

独立後、自分の弟子を同じように大阪や名古屋の硝子屋の切子場に修行に出したが、阿部の弟子たちはどこへ出しても職長になったと言われるほど評判で腕がよかったようです。それというのも、当時の日本を代表する工芸硝子を使っていた岩城硝子の中で鍛えられ、

薩摩硝子から品川硝子、日本硝子会社と助七の経験を積んだ腕によって仕込まれた勝之助の技術を弟子たちがよく受け継いでいたからでありました。

勝之助の仕事先は両国に会った硝子問屋の小林硝子、製造屋の名門岩城硝子、先のスズキ、江戸切子などで、当時は色被せが流行、鉢には花縁や剣縁などをそろえ、過敏などにもかなり凝った文様をカットしていました。