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 切子界を彩った義兄弟

切子界を彩った義兄弟

■ 豆腐屋から硝子やになった三村豊八

三村豊八は明治6年、横浜に生まれました。幼い時分、豆腐屋に方向に上がっていましたが、まもなく飛び出してしまい、どういう事情からか、その後工部省品川工作分局でカットグラスの修行を積んでいました。

やがて徴兵され、日清戦争に従事しますが、持ち前の向こう前の強さで手柄を立てて勲章を受けたそうです。除隊後は江戸切子業に従事することになりますが、小僧のときは外人から江戸切子を習ったと、

豊八が近親者煮の述べているように、当時のヨーロッパにおける先端の加工技術を学んだものの、そのころの日本では切子業もまた内職程度のもので、企業としての道には遠いものがありました。

■ 難しかった切子屋の共同企業化

豊八は先頭になって江戸切子の共同事業所を興し、経営者として精魂を傾けましたがうまくいかず、同様の企業設立、解散を繰り返したもののついに果たすことはなく、業界のおかれた立場などを憂慮、切子業に見切りをつけ、製造業に鞍替えしてしまいました。

三村豊八は切子職人から硝子の製造屋になり、ほとんど唯一成功した人でもありましたが、なにぶん若い活動期を切子界に挺身したことや、まもなくやってきた激動の時代に遭遇したこともあって、戦後の復興を見ることなく人生を閉じました。

■ 研磨材に貢献する木村文蔵

木村文蔵は、戦時中に左足に弾丸を打ち込まれ、戦場の修羅場で倒れたまま動けなくなり、発見されて病院に入れられたのは三日後のことでした。治療中に病院を慰問に来た乃木将軍より声をかけられたことを一口はなしていたそうです。

復員後は左足が自由に曲がらなくなり、長子であった文蔵は農業をあきらめ、同郷の豊八の総武線高架下の切子加工所の弟子入りしました。やがて仕事熱心で温厚誠実な人柄は豊八の認めるところとなり、その妹を文蔵に嫁がせています。

豊八が高架下から出た後を文蔵が引きついていますが、その後、亀戸3丁目に移って業務を広げ、10人もの職人小僧を雇い、主に佐々木硝子、山清商店、の花瓶、組み鉢、特にデカンターボトルなど高級グラスのカットを得意としました。

時には義兄になった豊八の製造所で作る素地にもカッティングしましたが、その多くを佐々木硝子の加工に委ね、昭和10年前後のカットグラス花やかなりし頃、文蔵は同社の切子加工を最も多く手がけて三羽烏と称されました。