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 大正時代の奉公人

大正時代の奉公人

■ 切子界の最長老・大友初次郎

明治以降の切子屋で働く人々の環境については、大正時代の江戸切子の奉公人の生活ぶりはどんなものだったのでしょう。動力が導入されたものの、厳しい師弟製の実態はあまり変わらなかったようです。

切子界の最長老・大友初次郎は明治34年、日立市に生まれました。大正元年、小学校を出ると、本所柳町にあった、山木兼吉の経営する硝子製造工場の中で枠借りをしていた湯元養吾の江戸切子に奉公に上がった。

親方の湯元兼吾は、品川硝子出の山口丸太郎の弟子で、腕利きの職人でした。初次郎が入門した頃は、街灯もまだガス灯が多く、山木硝子もランプ、ガスの火屋を中心に、わずかに小物食器も製造するという工場で、湯元の加工場では山木で作られるコップに切子細工を施していました。

■ 切子枠に救われた林正雄

大地震の折、切子屋で切子枠の下にもぐって命拾いをした1人の見習いがいました。林正雄です。元硝子の製造場を借りて、本所徳右衛門で江戸切子と平物の加工を手がけていた長谷川慎蔵の工場は建物も古く、脆くも倒壊してしまいました。

使用人たちは外に出るものが半分、他は近くの切子枠の下にもぐりこみました。そのうち柱が倒れ屋根が抜け、板ギレや切子枠の上に降り注ぎ、大柱が正雄の目の前に落ちてきました。

揺れが一段落すると大人たちが建物の下に埋まった小僧たちを助け出しましたが、正雄は切子枠の下にいたのが幸いし、怪我もありませんでした。加工場の関係者13人で洲崎にあった飛行場に逃れましたが、その間に親方の家も工場も焼け落ち、火勢が強く、向島の菖蒲園に親方の親族がいたので

避難所を移し、炊き出しの援助を受けて一夜を過ごした翌日、各自身寄りの家に帰ることになりましたが、川口から汽車が出ていると言ううわさを聞いて、正雄はそこまで歩き、満員の列車に乗ってやっとこ今日の二本松に帰ることが出来たようです。

■ 操縦士になるはずだった江井繁

平物加工の長老、江井繁も大正時代に小僧として苦労をした1人です。明治39年相馬に生まれ、大正8年、兄を頼って上京し、近くの洲崎、小栗飛行場で飛行機を見ているうちに操縦士にあこがれましたが、一人前になるまでは小遣い銭はもとより、ろくな食事はとれない、と周りから反対され、

兄竹男の働く、本所緑町の藤田専一郎の加工場に入りました。主に時計枠、照明器、香水瓶の加工を浴した工場で、親方は大学を出てから田町に合った品川硝子出身である谷田盤太郎経営の東京硝子製作所で修行を積んだインテリ職人でした。

当時としては大きい加工屋で十数人の職人小僧がいましたが、つき一円が小遣いの済みこみ奉公で、温かい飯と魚がつくのは昼食に限られ、普段はたくあんが主なおかずで、冷や飯を二杯食べなければ温かいご飯に縁がなかったと言います。